灰の香り
暗くどんよりした空を見ながら、暇なバイトの残り時間を数えてただぼんやりとしていた。
最近新しいお薬を始めたけれど、どうにも具合が悪い。
集中できなくて頭に霧がかかるような眠気に襲われる。吐き気が止まらず、急に体の自由が効かない目眩に襲われてゾッとした事もあった。
しんどいな。でもまぁ、どうせ死ぬんだからいいか。
そんなどこか他人事に感じながら吐き気に耐えていると店のドアがガチャガチャと鳴っていた。
入ってきたのは穏やかな表情の老夫婦。
「すみませんね、押戸だと間違えてお騒がせしてしまって…」
気恥しそうに笑う小柄なご婦人と
優しく微笑みながら静かに扉を閉めていた旦那さんを見てけだるい死にたさが少し軽くなった。
「紳士物と婦人物、礼服を二着お願いいたします」
穏やかで柔らかい言葉に心がほぐれる。
いつもはお客様が来ただけで泣きそうになって胸が苦しいのに。
「それでは、またお伺いしますね」
「よろしくおねがいいたします」
ご夫婦は最後まで穏やかな空気を残して出ていった。
旦那さんが引き戸を閉めてから戸を押すジェスチャーをしていて、ご婦人は恥ずかしそうに笑いながら寄り添う。
そしてゆっくりと帰って行く姿を見送った。
受付の椅子に腰掛けるとご夫婦の残した柔らかい空気がまだ残っているようで少し嬉しかった。
私も、あんな仲良くて優しい老夫婦になれたら。
すごく素敵だな。
優しい旦那さん。穏やかな家庭。素敵な子どもに可愛い孫。
普段は二人でゆっくりとすごし、たまに少しだけ遠出もしてみる。
いるだけで周りも優しくできるような素敵なおばあちゃん。
そんな柔らかい妄想は手元から香る灰の匂いでぼやけていった。
礼服を触るのは苦手だった。
特に灰の香りの強い礼服は苦しい。
私も幸せになって穏やかなおばあちゃんになりたい。
その願いよりも
いつか自分が自分でその道を消してしまうという恐れの方が私には現実的に見えて心が冷えた。
私がいなくなったら。
お父さんもお母さんも弟も妹も
彼もこの匂いになるのかな。
私じゃない人で考えるととても苦しいのに
自分で考えるとその辛さが滲んでよく分からなくなる。
その瞬間が、辛かった。
まや